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John Wheatley教授を悼んで

日本物理学会誌 第41巻 第7号(1986)

広大理 前野 悦輝

 低温物理学の研究で世界的に著名なJohn Wheatley (ウィートリー)教授が1986年3月10日,急性心不全のため亡くなった. サンタモニカの自宅から自転車でカリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)に向う途中の出来事で,享年59才の若さであった.

 Wheatley教授は, 1927年アリゾナ州ツーソンに生まれた. コロラド大学を卒業後, 1952年にピッツパーグ大学より博士号を受け,その後1967年までイリノイ大学で活躍する. この間, 1954~55年にはオランダのライデンにあるKamerlingh Onnes研究所のGorter教授のもとに留学, 1961~62年にはアルゼンチンに渡って,低温研究施設の建設を指導した. Wheatley教授の3He研究は1958年に始まる. イリノイでの主な業績は,液体3He及び希釈3He-超流動4He溶液のフェルミ液体としての振舞をスピン拡散係数や比熱,そして零音波の測定を中心に明らかにした事で、ある.

1967年からはラホイヤ(La Jolla)にあるカリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)に研究室を移し, 3Heを中心としたmK領域の実験が続けられる. 1968年には,ポメランチュク冷凍器中で硝酸セリウムマグネシウム(CMN)の磁気温度にしてT*=2. 15mKにまで3Heを冷却する. 1972年にコーネル大学のグループによって液体3Heの新しい相が発見された後は,ラホイヤのグループからも堰を切ったように次々と,この超流動相の全容を明らかにする研究成果が発表された. そして1975年の第14回低温物理学国際会議に於てWheatley教授は,第9回のFritz London賞を受賞したのである.

 Wheatley教授はきわめて優れた工学的センスをも兼ね備え, ヘリウムなどの研究の最新の成果と直結した技術的革新を次々と生み出した. 1960年代後半に彼のグループから発表された希釈冷凍器やポメランチュク冷凍器は,当時の極低温生成技術の質の向上に非常に貢献した. またSQUIDの実用化の先駆のひとりとして,交流ブリッジ,CMN温度計,雑音温度計などをmK領域の研究に用いる技術を確立した.

 Wheatley教授のグループから生み出された研究論文の特色は,実験装置・方法の詳細な記述ときわめて質の高いデータにある. 超流動3Heの初期の研究に代表されるように,その着想は斬新で時代を先取りし,以降の研究の方向づけを行うものであった. Wheatley教授の興味ある研究分野ごとに用意されたノートには,独自のアイデアや問題点の分析,測定量の見積り,装置の構造のアウトラインなどが,細かい字でびっしりと書き込まれていた. ノートの各頁の上には丸で囲った頁数と日付が記入され,教授の凡帳面な性格をよく表していた.

 Wheatley教授は我が国における低温物理学の発展にも直接・間接に様々なかかわりがあったが,直接教授の教示を受けた日本人としては,現在米国のラトガース大学で大活躍中の小島東生氏が第一に挙げられる. 小島氏はUCLAで博士号を取得した後,ラホイヤに移りWheatley教授のポスト・ドクターとして, 当時発見されたばかりの3Heの新しい相の超流動性を検証する研究を行った. また私もUCSDの大学院生として1979年から1984年まで,ラホイヤ及びロスアラモス国立研究所のWheatley研究室で液体ヘリウムの実験の指導を受けた.

 さて,ここで私にとっても思い出深いラホイヤの研究室について少し書きたい. その実験室は地下にあり,二重の銅網を張ったシールドルーム,機械工作室,回路工作室などがひと続きになって広々としていた. シールドルームの中には2台の希釈冷凍器があった. 助手や学生の机は実験室のあちこちに二,三ずつ点在しており,居室即実験室であった. また教授室とセミナ一室も実験室に隣接していた. 研究室のメンパーの多くがコーヒ一好きであったが, Wheatley教授だけは,愛用の300ccのガラスピーカーに毎日,白湯を注いで飲んでいたのが印象に残っている. 教授は学生も含めたまわりの人々からいつも「John」とファーストネームで呼ばれていた. 1981年にWheatley教授がロスアラモス国立研究所に転任するのに伴い,この実験室は閉鎖されることになる. その春に助手のDoug Paulson氏を中心に実験装置の解体・荷造を行った. ロスアラモスには私を含めて3人の大学院生が移った. 地下の実験室は今どのように使われているのだろうか. 私は一昨年の秋,ラホイヤを訪れたときにその部屋に行ってみたが,休日であったせいか人気は全くなく,錠がおろされていた.

 Wheatley教授の自転車好きはよく知られていた. ラホイヤ時代は,UCSDのキャンパスから北へ12マイルも離れた小さな町から愛用の米国Schwinn社製の見るからに頑丈そうな10段変速の青い自転車で,海を見下ろす道を通う毎日であった. 研究室と離れている場合が多かったせいか,教授は講義室にはきまって自転車に乗って現われ,黒板のすぐ横に自転車を止めて講義を始めた. 講義室が4階や5階にある場合も同様で,自転車をかつぎ上げて階段を昇り降りする教授を何度も見かけた. ロスアラモスに移ってからも, 「自転車での通勤を楽しむのに十分な距離と坂のあるところ」に住むため,研究所からは4マイル離れた高台に白い壁のモダンな家を新築した. 内部はアトリエかスタジオといった造りで,玄関から少し降りた一階に教授の書斎などがあり,広い吹抜のある中2階に居間と台所,さらに昇った二階には教授夫妻の部屋のほかにフィンランド式のサウナもあった. クリスマス休暇をはじめ毎年何度かは研究室のメンパーが招かれ, Martha夫人の心のこもった手料理を御馳走になり,遅くまで話し込むのが慣例となっていた. 新築祝いで招かれたときには,学生全員が教授と一緒にサウナにはいった楽しい思い出もある.

ラホイヤにおける3Heの研究にあたっては,Wheatley教授は研究室で行われる実験のすべてにおいて自ら中心にたって指揮していたらしい. しかし1970年代後半に熱機関の研究を始めてからは,そのスタイルを変え,自らは実験の現場にはいらず,グループ全体を見渡しつつ新しいアイデアの模索を精力的に行った. ロスアラモス国立研究所への移転の時期に教授は再びGuggenheimフェローとしてライデン及びへルシンキで過ごす機会を得る. そしてライデン滞在中に,熱音響効果に基づく熱機関の着想を得たのである. その後,ロスアラモスで教授は再び自ら旋盤を回し,データを取り始める. この頃には研究室のテーマは多岐にわたるようになっていたが,ヘリウムガスを用いた熱音響エンジン以外のテーマについても,教授は適時にきわめて的確な指示を与える指導者であった. それらのテーマとしては,液体金属を作業物質とするいくつかの型の熱機関の開発,希釈3He-超流動4Heの熱対流の研究, 偏極水素原子系の研究があり,加えて超流動3Heの実験も再開された. Wheatley教授が「自然エンジン」と名付けた概念に基づく熱機関のこれまでの研究成果は,最近我が国でも紹介されている(J. Wheatley and A. Cox: パリティ 1 (1986) 6).

 このようにロスアラモスでの研究が新しい軌道に乗ってまさに進み始めた頃, Wheatley教授は心臓の大手術を受けることになる. 1983年8月,教授が主唱した自然エンジンのワークショップ開催のわずか一週間前に手術となった. 手術後の経過はきわめて良好で,教授は一週間も経たずに退院し,その後も着実に研究活動は進められていた.

 ところが翌年9月の末,昼食後のサイクリング中に気を失って倒れるという事故があった. 標高2400mのロスアラモスでは天候の急変は珍しくなく,その日も午後から突然あたりが暗くなり,雹が激しく降って来たのを記憶している. 幸運なことに,その時は研究室のスタップのひとりが同行していたので,教授は迅速に病院で手当され,一命をとりとめた. その後届いた手紙によれば,冬はスキーやクロスカントリーを夫人共々楽しんでおられる様子で,相変らずの行動力に複雑な思いをさせられた. 昨年からは研究室に新しい大学院生を得る目的もあってUCLAで講義をする一方,約半年間はロスアラモスに戻って実験するという生活であった.

 もうしばらくの静養があれば,あるいはサイクリングなどの運動をあの強い意忘で控える決断をされていれば,新しい概念の熱機関の分野でさらに物理学に貢献があったに違いない. ただ,Wheatley教授は, 亡くなるその瞬間まですべての意味で、現役の物理学研究者であった. その生き方を貫き通す彼を精神的に支えたMartha夫人の勇気には感服する.

 Wheatley教授の物理学への多大な貢献を記念して「John Wheatley記念基金」が設立され, サンディエゴのE. Hirschkoff氏, UCLAのS.Putterman教授らを発起人として活動が始まっている. この基金が私共に出来る思返しの手段のひとつとして, Wheatley教授の遺志に報いるために有効に活用されることを願ってやまない.